加藤周一氏が12月5日に多臓器不全により亡くなったそうだ。享年89。加藤氏は医師である一方、評論家としても著名で、「知の巨人」という異名を持っている。エール大学で教鞭をとったこともある氏は、なぜか私の恩師だったりする。
平成16年(2004)4月、1年の浪人生活(試験に落ちたわけではなく、学費を稼ぐために働いていたのである。)を終えた私は、母校の博士課程に進学した。この段階において、私は1回生の間に修了するのに必要となる単位(16単位)を取り終え、2回生以降博士論文を書く準備に重点を置こうと考え、それを実行に移した。
ただ、自分が専門としている分野の講義だけでは16単位に届かなかった。といって、修士時代の私がそうしたように、分野外(近世史、近現代史など)の講義をとったとしても意味がない。そんな時、土曜日に集中講義が開講されるとあり、その講義では日本最初の説話集である『日本霊異記』を読むというので受講した。
その講義の主が、加藤周一氏だったのである。
ただ、氏について何も知らない私はこのように思っていた。
「加藤周一って誰?テレホン人生相談の人だったかなぁ…」
その時の私は、親との諍いに疲れ果てていた時期で、加藤諦三氏の著作を貪るように読んでいた時だったので、「加藤」の名前を見ると即座に「加藤諦三」の名前を連想してしまうのだ。
第一回目の講義、大勢の人々が講義室に集まった。しかし、その大半は聴講生とも加藤氏のシンパともつかないような人で、「正規の受講生」は私を入れて10人前後しかいなかった。仏教史の先生は他にもいるので、そちらの方に流れてしまったのだと思われる。
彼の講義は私にとっては退屈極まりなく、講義室の窓から見える山々が移ろい行く様を「きれいだなぁ」とぼんやり眺めていた。なぜなら、彼の『日本霊異記』に対する見方は、私の見方や求める講義の在り方とで全く異なる物だったからである。
私としては平安時代の人々が仏教という宗教をどこまで浸透していて、著者である景戒が何を目的として『日本霊異記』を編纂したのかなどを論じたかったし、加藤氏にも論じてほしかった。しかし、加藤氏は違った。どうしても世界的視野からテキストを読みとこうとするのである。例えば、『霊異記』に登場する異類婚が世界的に存在する物であるとか、地獄極楽に対する考え方が、ある時代の欧州の考え方に似ているなど。
もうお分かりであろう。私は仏教史の講義を加藤氏に求め、それに対して加藤氏は民族学、あるいは比較文明論のスタンスで応じた。だから、齟齬が出てしまったのである。それが結果として、ある講義で私は西洋文明の視点で日本文化を論じた加藤氏に、「その時代に日本は西洋文明の波にあらわれておらず、また日本人は西洋という認識もなかったはずだから、西洋の視点で日本文化を考えるのはいかがなものか。」などと噛み付いた。
秦氏が景教(キリスト教の一派)の信者で、太秦は中国で「大秦寺」と呼ばれたキリスト教会があったからであるという説が一部に伝わってるから、薄くではあるが西洋文明が伝わっている可能性があるとしても、平安時代にまさか西洋文明は伝わったとする歴史的裏づけは取れない。だから、加藤氏のように西洋的視座から日本文化を考えるのは、歴史学的にまずいと考えたのだ。
それ以後どうなったかは分からないけれど、私は加藤氏の講義において単位を取得することができた。加藤氏の講義は次の年も行われたようだが、既に単位を取り終えた私は取得せず、それ以後講義が行われたのかどうかも分からない。
傍目、特に加藤氏の著作が好きな人から、「何をもったいないことをしたんだ」と言われそうだ。ただ、氏は冬休み前に「今年度最後の講義が終わったら、食事会をしましょう。」と、受講生に約束したにも関わらず、食事会のことなど忘れたかのようにそそくさと帰ってしまった。
だから、受講生の中には「約束したのに覆すなんて…」と不満を漏らしていた人もいたけれど、私としては仮に食事会に招待したら、氏は何を食べさせてくれたのだろうと思ってしまう。
結果的に、花より団子なのだよ、私たちには。
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