“資料館”できました

 最近、阪神高速神戸線尼崎インターチェンジの近くに尼崎市立文化財収蔵庫がオープンしました。

 元々成良中学校だった所を改修して資料館にしたのだそうです。

 御存知のように、尼崎市は京都・大阪から近い所にあり、興味深いエピソードをたくさん有しています。しかしながら、今までそうしたエピソードを紹介する場所がなかったので、市の歴史を知りたければ図書館や私設博物館などといった所を巡らなければならなかったので、ここがオープンしたことでだいぶ楽になるのではないかと思います。

 この文化財収蔵庫は、市内に点在する文化財の調査・研究・収集することで、これらの文物が破壊されるのを防止する一方、成果を広く公開することで、人々に地域の歴史や文化に理解と関心を持ってもらい、後世に守り伝えることを主な役割としているので、尼崎の歴史を知る上での「ファースト・ステップ」になると思うので、「原資料を見たいけど、どこへ行けば良いの?」と思われる向きはこちらに行かれることをお勧めします。

 しかし、どうしてここは「尼崎市立文化財収蔵庫」という名前なのでしょう?「尼崎市立資料館」でも「尼崎市立博物館」でも良いと思うのですが、あえて「文化財収蔵庫」としたのは、やはりこれとは別に博物館を建てる予定にしているのでしょうか。

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『橋本関雪展』(於姫路市立美術館)を観る

Dvc00186 6月7日(日)、私は姫路市立美術館を訪れ、「橋本関雪展」を観ました。

 橋本関雪の名前を聞くと、私などは真っ先に建仁寺が所蔵している「生々流転」(昭和15年/1940)が思い浮かぶのですけど、今回それは展示されていませんでした。(当たり前といえば、当たり前なのですが……。)

 その代わり、「寒山拾得図」(昭和5年/1930)や「霜猿図」(昭和14年/1939)、あるいは白楽天(白居易)の代表作をモチーフとした「長恨歌」(昭和14年/1929)などといった、美術の教科書に載っているような名画が展示されていて、非常に見ごたえのある内容となっていました。(ついでに言うと、ミュージアムショップには、西原大輔著『橋本関雪―師とするものは支那の自然』(ミネルヴァ書房、2007年)も販売されていました。私が見た限り、売れ行きの方は今ひとつでしたし、私もここでは買いませんでしたけど。だって、月末にあるヒストリアの大会で2割引で買えるのですから……笑)

 私は美術史が専門ではないので詳しくは語れませんけど、展示品を見る限り彼の作品は中国の故事をモチーフとした物が多いです。このような中国の文物をモチーフとした絵画のことを「南画」と言います。この画風は江戸時代中頃に流行したそうですが、彼の作品はこの南画を継承する物として「新南画」と呼ばれています。

 ただ、彼は日本画家としてスタートしているんですよね。しかも、師である竹内栖鳳は四条派に西洋画などを組み合わせて近代日本画を確立させた人物で、日本の文物を素材とした作品を多く世に送り出しています。そのような人に師事した人が、どうして「新南画」を代表する画家となったのか、不思議に思いません?

 島田康寛氏は、大正2年(1913)に関雪が中国に遊んだことを理由としていますが、私は父親の影響をもろに受けたためではないかと考えています。なぜなら、彼の父は儒者として著名な橋本海関で、彼が雅号として使っている「関雪」は師からではなく父から授かった物だからです。ついでに言うと、後に関雪は栖鳳の許を去りますが、これも父が栖鳳と反りが合わなくなったためだと言われています。

 なお、関雪は海関から儒学について教え込まれているので、そう言ったことも要因となっているのでしょう。

 事実、彼が描く老翁の顔は、橋本海関によく似ていますから。

 つまり、橋本関雪という人物は、儒学を理解してもらうために、中国の文物をモチーフにした作品を世に送り出したのであり、そういう意味では「画家」としてよりも「儒者」であると言っても良いような気がします。

 最後に、橋本関雪は明石と関係の深い人物です。彼が生まれたのは神戸ですが、彼の家はずっと明石藩儒として活動していました。そういう意味で、私としては明石市立文化博物館でも「橋本関雪展」をしてほしいなと思うのですが、明石は会場になっていないです。あぁ、残念。

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尼崎探訪記(4)―貴布禰神社の船だんじり

 平成21年5月5日午後5時過ぎ、庄下川のほとりを歩いていたら、威勢の良い祭囃子が聞こえました。
 普段、この川で祭囃子がするということは滅多になく、しかも周辺には歴代の尼崎藩主を祀る桜井神社があるものの、今時分に行われる祭りはないんですよね。
 だから、市が主催するイベントの一環で、どこかのグループが祭囃子を披露しているのだろうと思っていたんです。

 阪神尼崎駅の北側にあるショッピングモールまでやってきた時、既に川縁には黒山の人だかりができていました。しかも、その向こう側から祭囃子が大音響で聞こえてきます。
 「ここでやっているんだな。」そう思った私は、川縁に近づき、川の様子を覗きました。すると…このような物が川の中に浮かんでいるのが見えました。

1  大きなお神輿のような物がフロートの上に載っていて、棒を持った男性数名がその周囲を取り囲んでいます。また、神輿の中では子供たちが懸命に鉦や太鼓を叩いて祭囃子を奏でている……。
 そう、川の中に浮かんでいた物とは、船だんじりだったのです。

 この船だんじりは、後方に見える旗(黒く縁取られている方です。)に「貴布禰大明神」と書かれているところから、貴布禰神社の物であることが分かるのですが、私はこの時それがどこの貴布禰神社か分かりませんでした。貴布禰神社は西本町の他に長洲(長洲本通)にもあるからです。
 ただ、西本町の貴布禰神社は長洲の貴布禰神社を移した物だから、長洲から西本町へ移転する様を再現したものであると解釈しました。

 しかし、この私のイメージはどうやら間違っていたようです。実はこの船だんじり、尼崎青年会議所が創立50周年を記念するイベントのために用意した物だったからです。

 この船だんじりは貴布禰神社から御旅所がある辰巳八幡神社(東本町)に向かった神輿が、舟に乗って神社に戻る時、その先導役として使われたと、江田政亮氏(貴布禰神社宮司)は述べています。(『南部再生』16号、2004年)辰巳八幡神社はこちらにもあるように貴布禰神社の東側にある神社ですから、西本町貴布禰神社よりも北にある長洲へはいけるはずがないんです。

 貴布禰神社の船渡御は、神社と庄下川の間を国道43号線が通っているために陸渡御(貴布禰から辰巳八幡までは神輿が陸上を通ったそうです)を含めて復活させることが難しいそうです。(警察からも国道43号線を通行止めにすることは難しいと言われていると、『南部再生』17号に書かれています。)
 でも、江戸時代から連綿と受け継がれていたお祭りなのだから、できるだけ原型に近い姿で復活できればいいなと思います。

 「ないよりはマシじゃないの?」と言われたら、それまでですけどね。

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尼崎探訪記(3)―廣徳寺

大物崩れの結末は

廣徳寺遠景
大物崩れの結末は
廣徳寺山門

 廣徳寺は寺町にある臨済宗大徳寺派の寺院です。ここも前に紹介した貴布禰神社や如来院と同じように、元和年間に他の場所から移ってきました。

 明徳元年(1390)、言外宗忠(大徳寺第7世)によって開かれたこの寺には、「豊臣秀吉ゆかりの寺」という看板が掲げられています。初めてこの看板を見た時、私はこの寺がどこで秀吉と繋がるのか分かりませんでした。

 だって、この時私は別件でこの寺を訪れていたのですから。

 後で調べてみたところ、天正10年(1582)6月に織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれたことを聞き知った秀吉が、滞陣していた備中高松(岡山県)から引き返して、山崎の地(京都府)で明智光秀の軍勢と激突したことがありました。これが有名な「中国大返し」と「山崎の戦い」です。

 『川角本太閤記』には、尼崎まで戻った秀吉は明智勢と戦い、敗れて栖賢寺に身を隠したとあります。これが『絵本太功記』になると、一時廣徳寺に身を隠し、隣りにある栖賢寺に移動したことになっているのだとか。

 そこではたと気が付きました。子どもの頃に読んだ岡田章雄『豊臣秀吉―ぞうりとりから戦国の英雄に』(講談社、1983年)に明智勢に敗れた秀吉が廣徳寺に逃れて僧となり、小僧が味噌をするのを手伝うことで、追いかけてきた四王天但馬守の目を欺いたということを。

 これはあくまでも江戸時代に作られた物語であり、史実として存在していたとは考えられません。ただ、桑田忠親『明智光秀』には、山崎で激突する前に秀吉は尼崎にいたことになっています。この出来事に尾鰭が付いた結果、『川角太閤記』や『絵本太功記』に登場する話になったのではないかと考えられます。

 尼崎と秀吉との繋がりについては、これから調べてみたいと思いますので、まとまり次第このブログに書こうと思います。

 ……て、どうして私は豊臣秀吉の話をしてしまったのだろう?

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尼崎探訪記(2)―如来院


細川高国と神崎の遊女

山門
細川高国と神崎の遊女

鐘楼

細川高国と神崎の遊女

塔婆と五輪塔

 如来院は寺町にある浄土宗系寺院で、正しくは「珠光山遍照寺如来院」と言います。この寺は元々神崎にありましたが、永正16年(1519)に細川高国が大物に移した後、元和年間(1615~24)に戸田氏鉄が今の場所に移転させました。

 境内には、応永32年(1425)の銘がある梵鐘を持つ鐘楼や嘉暦2年(1327)の銘が入った供養碑などがありますが、私が見る限り古さは感じられませんでした。やはり平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で大破したのを建て替えたからなのでしょうか。

 この寺は円光大師二十五霊場第四番札所となっています。この霊場は法然と縁のある25ヶ所の寺院を巡礼するもので、江戸時代に僧霊沢によって創始されました。この中に選ばれているのは、この寺が入水自殺を遂げた五人の遊女を法然が弔った「神崎釈迦堂」の後身とされているから。入水したのは、彼女たちが自らの罪業を法然(※)に懺悔して、彼の教化を受けたことによりますが、さすがの法然も教化したことで遊女たちが入水するとは予想だにしなかったのではないでしょうか。

 ただ、「いろをし房」と「しら梵字」という二人の「ぼろぼろ」が現在の神奈川県川崎市宿河原で決闘を行ったことが、『徒然草』第百十五段に書かれていますし、『一遍上人絵伝』には今際に一遍が弟子に対して「七人に限って入水してもよい。」と述べたと言います。更には熊野灘や足摺岬で行われていた「補陀落渡海」が隆盛を極めたのもこの頃のことでした。

 以上の事から考えると、鎌倉時代の僧侶たちの間においては「今をどう生きるか」よりも「どうすれば極楽往生できるか」の方が重要であり、命は現代の私たちが考えるよりも軽く考えられていたのではないかと思います。

 だからと言って、今の風潮を肯定するつもりは一切ありませんが……。

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尼崎探訪記(1)―西本町の貴布禰神社

貴布禰神社

 貴布禰神社

 阪神電車出屋敷駅から南東へ5分ほど歩いた所に、貴布禰神社があります。現在は貴布禰大神・賀茂御祖大神・賀茂別雷大神の三柱が祭神となっていますが、元々は高龗神(貴布禰大神のことで、“たかおかみのかみ”と読む。)だけを祀っていたそうです。

 賀茂御祖大神と賀茂別雷大神の二柱が祭神に加えられたのは、明治42年(1909)のことなのだそうですが、私はてっきり賀茂御祖大神と賀茂別雷大神のニ柱が先で、貴布禰大神が後なのかと思ってました。というのも、この神社は元和年間(1615~24)に長洲から今の西桜木町に移ってきたのを更に移転させた物だからです。

 ご存知のように、長洲には古代から中世にかけて賀茂社の荘園である長洲荘がありました。私は荘園については不勉強ですが、法隆寺が斑鳩寺を介して播磨国鵤荘(兵庫県太子町)を管理しているように、中央の寺院は荘園内に自らの末寺を置き、それに荘園を管理させています。もし、この図式が賀茂社と長洲荘との間に成り立つとすれば、賀茂社が長洲荘を管理するために賀茂御祖大神(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)とを祭神とする神社を建てても不思議ではないのではないかと考えたのです。

 事実、貴布禰神社を崇敬していたのは主に海人で、彼らは賀茂社のために海産物を獲っては献上していましたから。(つまり、賀茂供祭人だった訳です。)

 長洲には今でも貴布禰神社(尼崎市長洲中通三丁目)があるものの、高龗神・伊奘諾尊・市杵島姫命の三柱を祀っています。この内伊奘諾尊と市杵島姫命は合祀した熊野神社と厳島神社の祭神なのですが、では何故こちらの貴布禰神社は賀茂御祖大神と賀茂別雷大神を祀ることにしたのでしょうか。理由も含めて気になる所ではあります。

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姫路への旅

 最近ブログの更新を怠っていたが、今日から再スタートしようと思う。

 さて、今日は昼から兵庫県姫路市を訪れた。

 私は年明けから稲爪神社につたわる「小千益躬の鉄人退治」について調べているのだが、英賀城主(姫路市)の三木氏が河野氏一族で、なおかつ初代の三木通近は稲爪神社のある大蔵谷を経由して英賀に入部したと、ある文献に書いてあったが、『姫路市史』にはその裏づけとなる史料がなかった(実際には見つけられなかった)ので、現地へ行けば手掛かりとなる物が何かあるかと思ったのだ。

 初めは姫路市立城内図書館で閉館まで滞在して『姫路市史』を片っ端から読もうかと思ったが、県立歴史博物館に赴き、博物館が閉館してから城内図書館を訪れることにした。この博物館に勤務する知人に「展示が変ったよ。」と言われていたので、どんな風に変ったのかを確認し、あわよくば前述したことについて彼の意見を訊こうと思ったのだ。

 ただ、訪れた時には既に「閉館」の札が玄関には置かれていた。「まだ時間あるはずなのにおかしいなぁ」と思い、懐中時計を取り出してみた所、時計の針は午後4時45分を指していた。この段階で二番目の目的を捨て、最初の目的のみに絞った私、「後15分しかありませんよ。」と言う受付係に「結構です。」と応じ、早足で常設展示を一周する。ただ、行けども行けども彼の専門領域である中世史のブースは現れない。「なくなってしまったのかなぁ。」と、目的地は1階の奥にあった。

 ブースは私が博物館実習でお世話になった平成10年(1998)の時と比べて若干狭くなっていたが、削られたスペースにレファレンスコーナー(要は図書室)が作られ、なおかつその時にはなかった鎧兜が展示されてあった。あとでこのことを知人に訊いたら、「まだまだだ。」と言っていたが、これで博物館と利用者との距離が縮まったのではないかと満足している。(だって、実習の時は「地域文化を重視するのだ!」といって、鎧兜は収蔵庫に大切に保管されていたのだから。利用者はこうした物を見たがっているのに。)

 そのレファレンスコーナーまで来た時、閉館時間まで少し時間があったので、係員に『わたりやぐら』が今でも刊行されているかどうかを訊ねる。すると、係員は「ここでしか見られません。」とか「どういった内容の物が見たいか」などを矢継ぎ早に聞き返した上、内線でYK氏にあれやこれやと聞いている。

 YK氏といえば、私が実習を受けた頃にもいたけれど、確か私の専門領域を研究してはいないはず。でも、係員は懸命になってYK氏にどのように対応すればよいか指示を仰いでいる。

 私は単純に「刊行されているかどうか」を知りたかっただけなんですけど……。

 こうしている間に閉館時刻が近づき、警備員がやってきた。でも、係員は切り上げようとはしてくれない。だから、仕方がないので身分を明かした上で知人に取り次いでほしいと依頼する。

 結果的に『わたりやぐら』は抜き刷りと共に知人から頂いたけど、再来週には「妖怪天国ニッポン―絵巻からマンガまで―」と題された特別展の追い込みもあるのに、邪魔してしまったようで、まさに痛し痒しといった所か。でも、彼は嫌な顔一つせずに私の話に耳を傾けてくれ、なおかつ有益なアドバイスまでいただいたので、寄った甲斐があったと思う。

 今度はもう少し早めに姫路入りすることにしよう。

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加藤周一先生を送る

 加藤周一氏が12月5日に多臓器不全により亡くなったそうだ。享年89。加藤氏は医師である一方、評論家としても著名で、「知の巨人」という異名を持っている。エール大学で教鞭をとったこともある氏は、なぜか私の恩師だったりする。

 平成16年(2004)4月、1年の浪人生活(試験に落ちたわけではなく、学費を稼ぐために働いていたのである。)を終えた私は、母校の博士課程に進学した。この段階において、私は1回生の間に修了するのに必要となる単位(16単位)を取り終え、2回生以降博士論文を書く準備に重点を置こうと考え、それを実行に移した。

 ただ、自分が専門としている分野の講義だけでは16単位に届かなかった。といって、修士時代の私がそうしたように、分野外(近世史、近現代史など)の講義をとったとしても意味がない。そんな時、土曜日に集中講義が開講されるとあり、その講義では日本最初の説話集である『日本霊異記』を読むというので受講した。

 その講義の主が、加藤周一氏だったのである。

 ただ、氏について何も知らない私はこのように思っていた。

 「加藤周一って誰?テレホン人生相談の人だったかなぁ…」

その時の私は、親との諍いに疲れ果てていた時期で、加藤諦三氏の著作を貪るように読んでいた時だったので、「加藤」の名前を見ると即座に「加藤諦三」の名前を連想してしまうのだ。

 第一回目の講義、大勢の人々が講義室に集まった。しかし、その大半は聴講生とも加藤氏のシンパともつかないような人で、「正規の受講生」は私を入れて10人前後しかいなかった。仏教史の先生は他にもいるので、そちらの方に流れてしまったのだと思われる。

 彼の講義は私にとっては退屈極まりなく、講義室の窓から見える山々が移ろい行く様を「きれいだなぁ」とぼんやり眺めていた。なぜなら、彼の『日本霊異記』に対する見方は、私の見方や求める講義の在り方とで全く異なる物だったからである。

 私としては平安時代の人々が仏教という宗教をどこまで浸透していて、著者である景戒が何を目的として『日本霊異記』を編纂したのかなどを論じたかったし、加藤氏にも論じてほしかった。しかし、加藤氏は違った。どうしても世界的視野からテキストを読みとこうとするのである。例えば、『霊異記』に登場する異類婚が世界的に存在する物であるとか、地獄極楽に対する考え方が、ある時代の欧州の考え方に似ているなど。

 もうお分かりであろう。私は仏教史の講義を加藤氏に求め、それに対して加藤氏は民族学、あるいは比較文明論のスタンスで応じた。だから、齟齬が出てしまったのである。それが結果として、ある講義で私は西洋文明の視点で日本文化を論じた加藤氏に、「その時代に日本は西洋文明の波にあらわれておらず、また日本人は西洋という認識もなかったはずだから、西洋の視点で日本文化を考えるのはいかがなものか。」などと噛み付いた。

 秦氏が景教(キリスト教の一派)の信者で、太秦は中国で「大秦寺」と呼ばれたキリスト教会があったからであるという説が一部に伝わってるから、薄くではあるが西洋文明が伝わっている可能性があるとしても、平安時代にまさか西洋文明は伝わったとする歴史的裏づけは取れない。だから、加藤氏のように西洋的視座から日本文化を考えるのは、歴史学的にまずいと考えたのだ。

 それ以後どうなったかは分からないけれど、私は加藤氏の講義において単位を取得することができた。加藤氏の講義は次の年も行われたようだが、既に単位を取り終えた私は取得せず、それ以後講義が行われたのかどうかも分からない。

 傍目、特に加藤氏の著作が好きな人から、「何をもったいないことをしたんだ」と言われそうだ。ただ、氏は冬休み前に「今年度最後の講義が終わったら、食事会をしましょう。」と、受講生に約束したにも関わらず、食事会のことなど忘れたかのようにそそくさと帰ってしまった。

 だから、受講生の中には「約束したのに覆すなんて…」と不満を漏らしていた人もいたけれど、私としては仮に食事会に招待したら、氏は何を食べさせてくれたのだろうと思ってしまう。

 結果的に、花より団子なのだよ、私たちには。

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初めて新聞に載る

 先日来、知人からメールで連絡が入る。それによれば、新聞記事に私の名前が載っているというのだ。

 「私は競技会で優秀な成績を残した訳でもないし、悪さした訳でもない。それなのに、どうして私の名前が新聞に載る必要があるのか?」と思いながらも、「どうして新聞に名前が載ったのか」を突き止める必要があると考えた。

 ただ、我が家は指定した新聞を定期購読していない。そこで図書館に赴いた時に、その記事を探すことにし、知人には「教えていただいて有難う」とメールを返した。

 10月7日、久しぶりに研究をしようと思った私は、兵庫県立図書館を訪れた。館内にある郷土資料室には、県内で発行されている新聞を多く収蔵している。ここならばあるだろうと思ったら、やっぱりあった。

 実はその記事は私の仕事に関するもので、その中で私は観客にどのような気持ちで鑑賞してほしいかを語っている。少々気恥ずかしいものを感じたけど、自分の仕事がこのような形で紹介されるのは嬉しいことだと思う。

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自民党総裁選挙を日本史上に位置付けてみる

 先日、福田康夫総理大臣が辞職して以降、総裁選を巡る動きが世の中を賑わせている。私の周囲には、地元兵庫県神戸高等学校を卒業した小池百合子氏を注目している人が多い。(ちなみに、小池氏は竹久夢二の後輩に当たる。ただし、竹久は家庭の事情でわずか8ヶ月で退学しているので、OBとは言えないが…。)

 けれど、私としては与謝野馨氏か麻生太郎氏が気になる。なぜなら、どちらも歴史上に名を残している家筋だからである。言うまでもないことだが、前者は情熱の歌人として知られる与謝野晶子の孫だ。「君死にたもうことなかれ」の詩は国語にとどまらず、歴史の時間にも習う位よく知られていることだけれど、このような詩を書いた人の孫が今の自衛隊の海外派兵をどのように考えているのか。それが私の関心事である。(もし、馨氏が総理大臣となって「引き続き駐留させる。」なんて言ったら、祖母は化けて出るだろう。)

 これに対し、麻生氏はどうか。与謝野氏と同じ位の歴史しかないのではないか。私は思っていたが、よくよく考えると、九州を中心に中世史を研究している川添昭二氏が、このような論文を書いていた。その名も

  「室町幕府奉公衆筑前麻生氏について」(『九州史学』57号、1975年)

という。

 この論文は、奉公衆という概念を体系化した福田豊彦氏の議論を引き継ぎ、それを簡潔な指標にまとめたものとして高く評価されている。(論文の情報としては結構古いけど。)しかし、タイトルとしてはかなりベタという他あるまい。なぜなら、筑前は今の福岡県のことであり、そこにいる麻生氏とは他ならぬ麻生太郎氏が属する家筋のことを指すのだから。(ただし、太郎氏の系統が、素直に奉公衆である麻生氏とつながるかどうかは分からない。しかし、麻生氏のウェブサイトには、きちんとこのことが書いていたりする。)

 以上を考えると、仮に麻生太郎氏が総理大臣に就任したとしたら、日本新党の党首として総理大臣となった細川護熈氏(麻生家が室町幕府で奉公衆を務めていたのに対し、細川氏は管領として麻生氏を顎で使う立場にいた。)に匹敵するくらいの家筋が天下をとることになる。(ちなみに、筑前麻生氏の祖は宇都宮朝綱という人物で、彼の孫にあたるのが藤原定家に百人一首を作らせた宇都宮蓮生である。)

 こんな感じで自民党総裁選挙を見ている人は、恐らく私一人だろう。でも、通り一辺倒の見方で新聞報道を見ていても面白くないので、こんな味方があってもよいと思うが…いかがであろうか?

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